年間第 16 主日・C 年(2013.7.21)

「日々、みことばを生活のただ中でもてなす」

日常生活のただ中で神が訪れる

 今日の第一朗読は、創世記からとられておりますが、わたしたちの信仰の父であるアブラハムのみことばの素晴らしいもてなしかたを詳しく描いています。

 パレスチナ地方の真昼時、なんと、主なる神は、旅人の姿でアブラハムの前に現れました。

 天幕の入口の日陰で、暑さのため少しうとうととしていたのかもしれないアブラハムは、目の前に現れた三人の旅人のそばに駆け寄り、地にひれ伏し恭しくお迎えしました。

「お客様、よろしければ、どうか、 僕(しもべ)のもとを通り過ぎないでください。水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから」

 当時も今ももてなし方は、あまり変わっていないでしょうが、とにかく客人に対する最高のもてなしだったと言えましょう。おそらく、紀元前9世紀、あるいは 10 世紀にさかのぼる古い資料に基づいて書いたと考えられるこの箇所は、神を擬人化しています。ですから、を旅人の姿で、しかも、二人の天使を従えてアブラハムを訪問したことになります。そこで、旅人たちが心づくしのもてなしを受けて、帰るときに、重大なお告げがなされました。

 実は、それより25年もさかのぼりますが、つまり、アブラハムが 75 歳のとき、すでに神は約束なさいました。

「わたしは、お前の子孫を大地の塵のように多くする。」(創世記 13.16)

 けれども、この神の約束は、なかなか実現しませんでした。ですから、アブラハムは、焦りを感じ、勝手に召し使いの一人と養子縁組をし、跡取りとしたのでした。その時です。神は、アブラハムにはっきりと宣言しました。

「『その者が、お前の跡を継ぐことはない。お前自身から生まれる者が跡を継ぐ』主は彼を外に連れ出した仰せになった。『天を仰いでみよ。星を数えられるなら、数えて見よ』

 また彼に仰せになった、『お前の子孫は、あのようになる。』」(同上 15.4-5)

 けれども、今日の場面で始めて、具体的に一人の男の子がいつさずかるかが、初めて知らされたのです。

 ですから、このアブラハムの旅人に対する心のこもったもてなしは、神のお告げのおことばをもてなしたことになるのではないでしょうか。つまり、神のことばをどのようにもてなすのか、アブラハムはその模範を示したと言えましょう。

 

マルタとマリアのもてなし方の違い

 次に今日の福音ですが、マルタとマリアという姉妹のイエスに対するもてなしかたの違いを見事に伝えている場面であります。ちなみに、ヨハネの福音によれば、この姉妹が住んでいたのは、エルサレムに近いベタニアであり、ラザロという弟もいました。恐らく、イエスとはとても親しい兄弟姉妹だったようです。ですから、イエスは、よくこの姉妹を訪問したのではないでしょうか。とにかく、今日の箇所は、その一コマです。

「マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。」

 これは、当時、弟子が師匠から教えを聞く姿勢にほかなりません。とにかく、イエスの時代には、律法学者たちは、律法の教えを学ぶことは女性にはふさわしくないという差別がありました。ところで、聖母マリアのみことば、あるいは出来事の受け止め方はどうだったのでしょうか。福音記者ルカは、次のように伝えています。

「御使いたちが離れて天に去ると、羊飼いたちは語りあった、『さあ、ベツレヘムに行って、主が知らせてくださった、その出来事を見て来よう。』そして、彼らは急いで行き、マリアとヨセフ、そして飼い葉桶に寝ている乳飲み子を捜しあてた。それを見た羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを、人々に知らせた。羊飼いたちが語ったことを聞いた人々はみな不思議に思った。しかし、マリアはこれらのことをことごとく心に留め、思い巡らしていた」

 確かに神は、ことばだけでなく、まず、具体的な出来事をとおして語りかけてくださるのです。因みに、ギリシャ語では、「ことば」を表す「レーマ」は、同時に「出来事」をも表します。ですから、聖母マリアがこれらの出来事をことごとく心に留め、思い巡らしていたというのは、みことばを、ことごとく心に留め、思い巡らしていたことになるのです。

 とにかく、わたしたちの生活は、さまざまなことに忙殺されて、つまり忙し過ぎて、イエスのおことばに耳を傾け、それらを心に納め、思い巡らすことができなくなっているのではないでしょうか。

 たしかに、マルタのように忙しく立ち働くことも必要でしょうが、同時に、静かなひと時を、みことばを味わうために使うことも必要です。そうしなければ、結局、忙しい生活に流されて、聖書を開き、深く思い巡らす時間が無くなってしまい、ついには、まさに、神不在の生活に陥ってしまう危険があります。

 イエスは種まきの譬えでつぎのように警告しておられます。

 「種は神のことばである。道端のものとは、一応はみことばを聞く人々のこことである。しかし、その人々が信じて救われることがないよう、悪魔が来て、彼らの心からみことばを奪いとる。

 岩の上のものとは、みことばを聞いて、喜んで受け入れるが、彼らに根がないので、しばらくは信じても、試みに遭うと、離れ去ってしまう人々のことである。 茨の中に落ちたものとは、みことばを聞きても、生活の中で、日々の思い煩みに覆われて、実が熟するまでには至らない人々のことである。

 善い地に落ちたものとは、正しく善い心をもってみことばを聞き、これを固く保って、忍耐のうちに実を結ぶ人々のことである。」(ルカ 8.11-15)。

 とにかく、日々の生活のただ中で、どのようにみことばをもてなしているのか、謙虚に反省する必要があると思います。