年間第13主日・C 年(2013.6.30)

「わたしに従いなさい」

エリシャの召し出し

  今日の第一朗読は、旧約時代に最初に登場する預言者エリアの弟子エリシャの預言者としての召し出しの場面を感動的に伝えています。

  まず、主なる神がエリアに命じます。「アベル・メホラのシャフトの子エリシャに油を注ぎ、あなたに代わる預言者とせよ。」

 そこで、エリアは早速エリシャを訪ねます。そして、彼のそばを通り過ぎながら、エリアの外套を彼に投げかけました。すると、エリシャは早速、自分の牛を捨てて、エリアの後について行くのですが、家族に暇乞いさせてくれるように願います。

「わたしの父、わたしの母に別れの接吻をさせてください。それからあなたに従います。」

  そこで、エリアは当然のことながらそれを許可します。

「行って来なさい。わたしは、あなたを妨げることは何もしていない。」

  ですから、早速エリシャは、実家に戻り、一頭の牛を屠り犠牲としてささげ、牛の装具を燃やして肉を調理し、家族全員にそれを振舞い食べさせます。

  それから、おもむろに立ち上がり、エリアに従ったのであります。

 

鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない

 次に今日の福音も、イエスの弟子になる者の覚悟について極めて厳しいおことばが語られています。

 まず、最初の一人が登場します。

「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従ってまいります。」それに対して、イエスは、突き放すようなおことばを投げかけます。

「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」

因みに、身の危険を感じ兄のエサウの所から逃亡中、ヤコブは、旅の石枕で一夜を過ごす場面があります。

「彼は、その場所の石を取って頭の下に置き、横になった。そして彼は夢を見た。その先端が天に届く階段が地に立てられ、見よ、神の使いたちがこれを昇り降りしていた。」(創世記 28.10-12)

 また、イエスの方から二番目の人物に声を掛けられました。

「わたしに従いなさい。」けれども、その人は、大切なことを願い出ます。

「主よ、まず、父を葬りに行かせてください。」ところが、なんと、イエスは、極めて突飛なことを命じられます。

「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは、行って、神の国を言い広めなさい」

 以前聞いた話ですが、修道者たちは、たとえ親が亡くなっても、実家に帰省することは許されなかった時代がありました。

 とにかく、イエスの時代には、死者の埋葬は、すべてに優先する宗教的な義務でした。しかし、イエスが、それは「死者」がすればよいことであり、「あなた」は、「神の国を告げ知らせるべき」だと主張なさいます。ここで言われている「死者」ですが、明らかにまだ「神の国の到来に気づかない人々」のことです。ですから、イエスに出会って神の支配の実現を目の当たりしたなら、神の国の到来の告知を最優先すべきだという主張であります。

 次に、第三番目の人物ですが、「まず、家族に暇乞いに行かせてください。」と、至って当然なことを願い出ます。ところが、イエスは、これまた極めて象徴的なイメージで断言なさいました。

「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない。」

 これまた、「鋤」も、わたしたちにはあまり馴染みのないイメージですが、主に牛に引かせて畑を耕す農具です。ですから農夫は右手で鞭を握り、左手だけて扱うので、しっかり前を見ていなければならず、後ろを振り向く余裕は全くない緊張した姿であります。つまり、いったんイエスに従う決心をしたなら、あらゆる未練を捨て去り潔くイエスについて行く覚悟がなくてはならいのです。ですから、最初の四人の弟子たちが、イエスから呼ばれたときも、彼らはすべてを捨ててイエスに付き従ったのでした。

「さて、イエスはガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖に網を打っているのをご覧になった。・・・イエスは、仰せになった。『わたしについて来なさい。あなた方が人を漁る漁師にしよう。』二人はただちに網を後に残して、イエスに従った。さらに進んでいき、ほかの二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、船の中で、父ゼベダイと共に網の手入れをしているのをご覧になった。イエスはこの二人に呼びかけられた。彼らもただちに船と父とを後に残して、イエスに従った。」(マタイ 4.18-22)。

 ところが、福音記者ヨハネは、最初の弟子たちの召命の場面を、違った視点で描いています。

「その翌日、ヨハネはまた、二人の弟子とともに立っていた。そして、イエスが歩いておられるのを見つめて言った。『見るがよい。神の小羊だ』

 二人の弟子は、ヨハネがそう言うのを聞いて、イエスについて行った。イエスは振り返り、二人がついてくるのを見て、『何を求めているのか』と仰せになった。彼らは『ラビ―訳すと<先生>−、どこにお泊りですか』と尋ねた。イエスはお答えになった、『来なさい。そうすれば分かる。』そこで、二人はついて行き、イエスの泊っておられる所を見た。そして、その日は、イエスの所に留まった。時は、午後四時ごろであった。」(ヨハネ 1.35-39)。

 わたしが高校三年の秋、原町教会を公式訪問された小林司教様に、廊下で呼び止められ「君、神学校に入って見ないか。」と呼びかけられたのも、確か午後一時ごろだったと思います。すべてのキリスト者は、洗礼を受けたとき、まさにすべてのしがらみを捨ててイエスに生涯かけて従う決心をしたはずです。したがって、まさに、毎日、この決意を新たにし、日々の生き方において常にイエスに忠実の従うことを最優先させるのは当然なことです。

 毎日、あらゆる執着をかなぐり捨てて、すべてにおいてイエスに従うことができるように共に祈りたいと思います。