年間第 11 主日・C 年(2013.6.16)

「愛は罪よりも強い」

罪の自覚

  わたくしが洗礼を受けたのは、丁度68年前、小学校の6年生のときです。一年間、兄弟三人は、毎週教会に通い、若い女性のカテキスタつまり、司祭の右腕として、特に子たちの信仰教育の担当者から子ども向けの教理を教えてもらいました。母だけが同時に司祭から直接の指導を受けていました。そして、一年後のクリスマスに母と子ども三人がそろって洗礼を受けることができました。

   其のころですが、ある時、ある信者さんに質問されました。

「洗礼を受けて何が変わりましたか?」

「いいことと悪いことを意識するようになりました。」と即答したように思います。

   つまり、洗礼を受ける前は、全く、罪の意識はありませんでした。けれども、洗礼を受けたとたん、罪のことが気になり始めたのです。事実、洗礼の説明も、アダムとエバが犯した原罪と自分が犯したすべての罪が、洗礼を受けることによってすべて赦されたという理解でした。

   さらに、洗礼後に犯した罪は、特に大罪はすべて告解(ゆるしの秘跡)によって赦されなければ、死んでから天国に入ることは、決してできないと厳しく教えられました。

   ですから、せっかく洗礼を受けても必ず罪を犯してしまうので、もし、大罪の状態で死んだ場合、地獄に直行してしまうので、洗礼は、死ぬ間際まで受けないで、臨終が来たとき洗礼を受ければ、原罪と自罪もろとも一発で完全に赦されるので、まさに天国に直行できること間違いないという理由で、洗礼を臨終までお預けしておくというやり方の人を「天国泥棒」と呼んでいました。

 

罪って何なの

  ところで、聖書に最初に登場するのは、確かにアダムとエバの犯した罪にほかなりません。

   紀元前 10 世紀ごろにさかのぼる古い言い伝えに基づいて、きわめてリアルに罪を犯す場面が描かれています。

「蛇は女に言った。『<お前たちは、園にあるどの木の実も食べてはならない>と確かに主なる神は言ったのか』女は、蛇に答えた。『園にあるどの木の実も食べてよいのですが、園の中央にある木の実は、食べてはならない。また触れてもならない。お前たちが死ぬといけないから>と神は仰せになりました。』しかし、蛇は女に言った。『いや、あなたは方は、死にはしない。それを食べると、あなた方の目は開かれて善悪を知り、神のようになることを、神は知っているのだ』

 そこで、・・・(女は)それを取って食べ、一緒にいた夫にも与えたので、彼も食べた。すると、二人の目は開かれ、自分たちが裸であることを知った。」(『創世記』3.1-7)

   このアダムとエバの罪のドラマで明らかなように、まず罪とは、神のことばあるいは命令に意識的に背くことにほかなりません。しかも、罪には連鎖反応によって自分以外の人をも罪に陥れる恐ろしい力があるということです。

  この誘惑者蛇の手口は、まず、神のことばに対する疑いを持たせ、次いで、そのことばを 頭っから否定することによって罪を犯させるという方法です。

  次に、同じ創世記には、カインとアベルの弟殺しの恐ろしい悲劇が語られています。

「主なる神はカインに仰せになった。『なぜ、憤慨するのか。どうして顔を伏せるのか。お前が正しければ、顔を上げればよいではないか。お前が正しくなければ、罪は戸口で待ち構えているようなものではないか。罪はお前を慕う。だが、お前はそれを抑えなければならない』

  カインは弟アベルに、『野原へ行こう』と言った。さて二人が野原にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかって、彼を殺した」(同上 4.6-8)

  ここでは、明に罪を擬人化して、あたかも「戸口で待ち構えているようなもの」であるという説明が加えられています。ですから、罪に対しては、先手を打って事前にしっかりとそれを支配しなければならないし、確かに抑えることができるというのです。つまり、わたしたちは、罪の誘惑に負けない力を備えているという確信です。

 

愛は罪よりも強い

  ところで、今日の福音は、これまた極めて感動的なエピソードを伝えています。なんと罪深い女が、公衆の面前でイエスによって赦されたというドラマです。そこで、イエスは、その現場に居合わせた人々に向かって宣言なさいました。

「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」

  まさに、愛と罪の赦しは表裏一体の体験にほかなりません。つまり、愛と罪の赦しは、まさに比例して深まるというのです。なぜなら愛と罪のゆるしとは、決して切り離すことができない同じ体験だからです。

  ですから、例えば、ダビデ王が、部下の妻を乗っ取るとう大罪を犯したとき、彼は、心から自分の犯した罪を悔み、赦しを願いながら、同時に神に対する愛をも一段と深められたのです。だからこそ、詩編に残しているような、愛から迸る赦しを願う祈りを、ささげることができたのではないでしょうか。

「神よ、慈しみによって、わたしを顧み、

   豊かな憐れみによって、わたしの咎を消し去ってください。

   悪に染まったわたしを洗い、

   罪に汚れたわたしを清めてください。

  ・・・

  ヒソプをもってわたしを清めてください、

  わたしは清くなるでしょう。

  わたしを洗ってください、

  雪より白くなるでしょう。

  ・・・

  救いの喜びをわたしに返し、

  あなたの大らかな霊によって、わたしを支えてください。」(詩編 51.1-14)

 愛は、罪よりも強いので、当然罪の赦しをも体験できるのです。

 ですから、もし、素直に罪の赦しを願うことができないとすれば、まさに愛が不足しているからではないでしょうか。

日々、愛を深めることによって、より深い罪のゆるしが体験できるように共に祈りたいと思います。