キリストの聖体・C 年(2013.6.2)

「裂いて弟子たちに渡しては、群衆に配らせた」

典礼改革が目したこと

 ちょうど50年前、教会は第二ヴァティカン公会議において、典礼の根本的改革に取り組みました。特に、ミサのささげ方について思い切った見直しをいたしました。それは、中世以来続いてきた極めて個人主義的な態度で、ミサにあずかる習慣が定着していたからです。

 ですから、例えば、今でも『カトリック聖歌集』に残っている初聖体を受けるときの、次のような聖歌があります。

「(おりかえし)わたしの胸に きてちょうだいな いつもなつかし イェズスさまー

1. しろいホスチア イェズスさまなつかしうれし いただきまーす

3. わたしのこころ おりおりにわるくなります 直して頂戴

4. さみしいときも はなれずにわたしのそばにいて頂戴な

 この「わたしの胸に」で始まる、これらの歌詞には、お友達のことは全く念頭になく、いつも「わたし」のことだけなのです。それは、結局、信仰の捉え方そのものに、共同体的な意識が全くなかったからではないでしょうか。

 とにかく、ミサは、すべてラテン語で唱えられ、司式者は壁に備えつけられた祭壇に向かっていて、会衆には後ろ姿しか見せませんでした。ですから、会衆は、聖体拝領台で仕切られた会衆席で、遠くに司祭を眺めながら、自分たちは共同体を形成するのではなく、各自が自分のまさに個人的な祈りか、せいぜいロザリオをくくるしか方法がありませんでした。

 したがって、第二ヴァティカン公会議が最初に取り組んだのは、まさに共同体的な典礼改革でした。幸い、すでにヨーロッパ諸国ですでに始まっていた「典礼運動」によって、特に初代教会で実践されていた、まさに共同体的典礼を再び取り戻すことを決定したのであります。

 ですから、典礼の主体は、祭司職を行使なさるイエスご自身と、祭司キリストのからだである教会の共同の行為にほかなりません。

 ちなみに、原始教会においては、典礼は家庭で行われていました。福音記者ルカは、教会

生活を、次のように描いています。

「信者たちは、皆一つになって、すべてのものを共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、・・・家ごとに集まってパンを裂き、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え、一つされたのである。」(使徒 2.44-47)

 まさに、信仰共同体の育成であり、この共同体が、典礼の主体にほかなりません。

 

共同体を育てる一致と分かち合いの秘跡

 ちなみに、すでに引退なさった前教皇ベネディクト十六世は、神学的にも極めて密度の濃い『愛の秘跡』という使徒的勧告を、2007 年 2 月 22 日に発布なさいましたが、そのさわりの箇所を、ここで引用したいと思います。

「典礼の本来の美の「主体」は、復活して、聖霊のうちに栄光を受けたキリストご自身です。キリストは、教会を、ご自分の業(わざ)に加えます。・・・教会は、キリストのご命令に従って、復活したキリストと、聖霊が注がれた経験とに基づいて、聖体のいけにえの祭儀を行います。ですから、キリスト教共同体は初めから、主日に『パンを裂く』ために集まりました。」(36、37 項)

  ところで、今日の福音は、福音記者ルカが伝える「パンの奇跡物語」ですが、福音記者マルコが書いたものが、まさに原型となっていると思われます。

  ちなみに、マルコのほうですが、パンの増加という奇跡的現象よりも、たった五つのパンと二匹の魚を分かち合ったことに焦点を当てています。ですから「増やす」という言葉は、全く使わず、次のことを強調しています。

「そこで、イエスは皆を組みに分けて青草の上に座らせるように、弟子たちにお命じになった。人々は百人ずつ、あるいは五十人ずつまとまって座った。そこで、イエスは、五つのパンと二匹の魚と取り、天を仰ぎ、賛美をささげてパンを裂いて、弟子たちに渡し、皆に配らせ、二匹の魚もみなに分け与えられた。皆は、満腹するまで食べた。そして、残ったパン切れと魚を集めると、十二の籠にいっぱいになった。」(6.38-43)

  とにかく、マルコは、分かち合いの大切さを強調する言葉を意識的に選んでいます。まず、イエスの感動的なおことばに聞き入った群衆には、まだ共同体はありませんでした。まさに、烏合の衆の状態だったのではないでしょうか。ですから、早速、共同体を構成します。「組に分けて座らせた」のです。それまで、てんでんばらばらだった群衆は、「百人、五十人ずつまとまって座った」のです。まず、弟子たちですか、極めて常識的に考え、具体的な提案をします。

「ここは、人里離れた所です。もう、時もだいぶ経ちました。皆を解散させてください。そうすれば、周りの村里や村々に行って何か食べ物を買うことができるでしょう。」(6.35-36)

   とにかく、弟子たちは場所や、時間が気になっていました。ですから、手っ取り早く解散を提案したのです。

   ところが、なんとイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」(6.37)

   ところが、弟子たちは、またもや、お金で解決することしか思いつかないのです。「二百デナリオ分のパンを買って来て、皆に食べさせよと、おっしゃるのですか。」(6.37)

   そこでイエスは、まず身近な所から調べさせます。「パンがいくつあるか見てきなさい(6.38)しかしながら、弟子たちが見つけたのは、たった五つのパンと二匹の魚だけです。五千人以上の大群衆にたいして、全く何の役にもたちません。

   以前、聞いた話ですが、一人の御爺さんが、三歳になるお孫さんと一緒に、たまたま、難民キャンプの悲惨な実情を放映していた番組を見ていたそうです。特に、子どもたちには、食べ物が殆どなく餓死寸前の状態におかれているのを目の当りにしたこのお孫さんですが、自分が食べていたおやつを、思わずテレビの方に差出し、叫びました。「これ、食べなさいよ」と。 

   ところが、そのお孫さんを見ていた御爺ちゃんが、一大決心をしました。

「おらいの孫は、なんと心の優しい子だこと。俺も何かしなければならい。」

   そこで、その御爺ちゃんは、ご自分の老後のために蓄えていた。一千万円をそっくり難民救済の義捐金として、しかも匿名で、ただ一言「孫の心より」と書いたメモをつけて寄附したとのことです。奇跡は、今も続けて起こっているのではないでしょうか。わたしたちも、ミサをささげる度ごとに、分かち合う力に満たされることができるように共に祈りたいと思います。