「三位一体の神を信じ、礼拝します」
三位一体の祭日の由来
教会は、伝統的に「祈りの掟と信仰の掟」(Lex orandi et lex credendi)の密接な繋がりを強調してきました。信仰箇条の重要な主題である「父と子と聖霊を等しく神として信じる」ことは、すでに、8 世紀の中頃から典礼において明確に表現されて来ました。特に三位一体への典礼的敬虔と独自の祝祭の始まりは、おそらく 11 世紀頃のベネディクト会修道院の典礼に由来すると考えられます。したがって、今日これから唱える「三位一体の叙唱」に対して、より古い伝統的な叙唱は、次のような格調高い祈りになっています。
「主なる、聖なる、永遠にして全能なる神を、いつどこにおいても感謝することは、誠に正しくふさわしいことです。この誕生された御子と聖霊によって、あなたは一人の神、一人の主であります。それは、・・・三つの位格における唯一の神の存在であります。わたしたちが、あなたの啓示に基づいて、あなたの栄光について信じることは、全く同じことを、あなたの御子についても告白し、また聖霊についても告白いたします。・・・」
父と子と聖霊である神を信じる
このように典礼において礼拝する三位一体の神を、わたしたちの信仰告白である使徒信条によって、主日と祭日のミサで宣言します。
「天地の創造主、
全能の父である神を信じます。
父のひとり子、わたしたちの主
イエス・キリストを信じます。
主は聖霊によってやどり、
おとめマリアから生まれ、
ポンティオ・ピラトのもとで
苦しみを受け、
十字架につけられて死に、葬られ、
・・・
三日目に死者のうちから復活し、
天に昇って、
全能の父である神の右の座に着き、
生者
せいしゃ
と死者と裁くために来られます。
聖霊を信じ、
聖なる普遍の教会、
聖徒の交わり、
罪の赦し
体の復活、
永遠のいのちを信じます。アーメン」
イエスの洗礼における父と子と聖霊の神
福音書において、父と子と聖霊の神が、初めてそろって登場するのは、イエスが洗礼者ヨハネから、ヨルダン川で「悔い改めの洗礼」を受けられた場面であります。最初に福音書を書いたマルコは、次のように報告しています。
「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼をお受けになった。イエスが水の中から上がると、天が開け、霊が鳩のようにご自分の上に降ってくるのをご覧になった。そして、天から声がした。『あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者。』」(1.9-11)
真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる
ところで、今日の福音は、最後の晩さんの席上での告別説教のさわりの箇所を伝えていますが、まさに聖霊の働きについて感極まって切々と語る場面であります。
「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである」
とにかく「今、あなたがたには理解できない」つまり、弟子たちがイエスとの最後の別れを意識して心が大きく動揺していたからでしょうか、イエスの語られるおことばが、やがて引き起こす迫害にも耐えられないのではというイエスの心遣いがにじみでているおことばです。
だからこそ、イエスは、弟子たちに聖霊が、必ず注がれることを約束してくださったのです。
ですから、福音記者ヨハネは、ルカ福音記者と違って、聖霊は、なんと主の復活の当日の夕方に早速注がれたことを強調しています。ちなみに、ルカによれば、聖霊が注がれるのは、主の復活後の 50 日目となっています。
実に、イエスが約束なさった聖霊は、「真理の霊」にほかなりません。ですから、わたしたちを「導いて真理をことごとく悟らせ」てくださいます。
光と輝きと恵みは三位一体のうちに、三位一体から
ここで、今日の祭日のために書かれた聖アタナシオ司教の手紙のさわりの箇所をかいつまんで引用したいと思います。
「さて、この信仰は、主によってわたしたちに与えられ、使徒たちによって宣べ伝えられ、教父たちが保って来たものです。教会は、この信仰に根ざしています。この信仰から離れ去る人は、キリスト者ではなく、その名に値する者でもありません。
この信仰によると、聖にして完全な三位一体があります。それは、父と子と聖霊の内に神として認められます。・・・事実、父は、みことばを通して聖霊においてあらゆることをなさいます。こうして、聖なる三位一体の一体性は保たれているのです。・・・
それは、聖霊によって一人ひとりに分け与えられる賜物は、父からみことばを通して与えられるものだからです。確かに父が持っておられるものは全て子のものです。だから、子によって聖霊において与えられるものも、父の賜物なのです。・・・」
わたしたち一人ひとりが、そして共同体全体が、日々、父と子と聖霊の交わりに満たされ、神の国の完成を目指して力強く信仰の道を歩み続けることができますように、共に祈りたいと思います。