主の昇天・C年(2013.5.12)

「地の果てに至るまで、わたしの証人となる」

  今日の第一朗読は、福音記者ルカが書いたとされる『使徒言行録』からとられていますが、まさにルカが、イエスの昇天の出来事をどのように捉えているかを、つまり、昇天という出来事をいかなる文脈で受け止めているかを、語っている大切な箇所です。ルカは、次のように核心に触れるイエスのおことばを伝えています。

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

 わたしたちキリスト者の使命は、全世界に出かけていってイエスの証人となって、イエスを人々に知らせることにほかなりません。

 この東洋の果てにある日本には、1549 年 8 月 15 日に、聖フランシスコ・ザビエルの一行が鹿児島に上陸して、初めて日本人にイエスを証する宣教活動を開始したのです。まさに献身的な宣教師たちの働きによって、短期間の内にキリシタンは九州地方だけでなく、遠く関西の方までも増え続けました。ところが、早くも迫害の嵐が吹き始め、至るところで殉教者たちが、まさに命を掛けて自分たちの信仰をあかしすることになりました。

 1619 年の初め、徳川秀忠は、新たにキリシタン迫害を強化し始めました。ですから、それまでどちらかといえば無関心を装っていた京都所司代板倉勝重は、やむなくほとんどの信者を捕えて牢に入れてしまいました。投獄されたキリシタンたちの獄舎生活は、他の罪人たちと同じように残酷さを極め、中にはとうとう牢死する信者もおりました。ところが、たまたま伏見に滞在していた秀忠は、まだ、牢内に信者が残っていることを知って激怒し、何と釈放された者をも含めキリシタン全員に十字架刑を命じました。

 1619 年 10 月 6 日、京の都中を引き回されたキリシタンの五十二人は、鴨川の近くある大仏の真正面にある広場に引き出されました。そこには、すでに二十七本の十字架が用意されていました。男性二十六人、女性二十六人、その内、なんと十五歳以下の子どもが十一人もいたのです。中ほどの十字架にはリダー格のヨハネ橋本太兵衛と身重の妻テクラと五人の子どもたちが一緒に十字架に縛られていました。母親のテクラは、三歳のルイサをしっかりと抱いておりました。両横には、十二歳のトマスと八歳のフランシスコが、母親と同じ縄で縛らて立っていました。また、隣の十字架には、十三歳のカタリナと六歳のペトロが、これまた同じ十字架に一緒に縛られていました。

 鴨川に夕日が映るころ、とうとう火が放たれました。その炎と煙の中、「母上、もう何も見えません」と突然娘のカタリナが叫びました。

「大丈夫、すぐに何もかもはっきりと見えて、皆がきっとまた会えるから」と、母親は、娘を力強く励ましまし、とうとう息を引き取りましたが、娘のルイサを抱きしめ続けていたそうです。

 イエスは、はっきりとおっしゃいました。「聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、・・・また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

 この母親のテクラは、確かに聖霊をいただいていたからこそ、まさに命を掛けてイエスの証人となることができたのです。

 ですから、たとえ殉教という方法でなくても、わたしたちの信仰は、まさに命をかけた証しすることに他なりません。

 あらゆる国の人々に宣べ伝えられるところで、イエスは、天に上られる直前に弟子たちに向かって宣言さないました。

「『メシアは、苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」

 このわたしたちの教会も、明治の初め、はるばるフランスから来日したパリ・ミッションのフランス人の宣教師の方々によって、イエスの死と復活が伝えられたので、百年以上前に誕生したのです。次に、カナダから来られたドミニコ会の宣教師の方々が働いてくださり、戦後は、同じカナダから来日したケベック外国宣教会の神父さんたちが担当なさったのです。そして、やっと四年前に、教区司祭のわたくしが主任司祭として着任した次第です。ですから、たとえ外国に行かなくても、身近な所からわたしたちの信仰は、証し続けなければなりません。とにかく、パウロは、この信仰のあかしこそが、わたしたちに課せられた最も大切な使命であることを、次のように強調しています。

「『主の名を呼び求める者は、だれでも救われる』のです。

 ところで、信じたことのないかたを、どうして呼び求められよう。聞いたことのないかたを、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がいなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。

・・・実に信仰は、聞くことにより、しかも、キリストのことばを聞くことによって始まる」(ローマ 10.13-17)

 わたしたちの共同体が、忠実にイエスをあかしする教会となれるように共に祈りたいと思います。

 中山正美作「都の大殉教」より テクラ橋本(バチカン美術館蔵)