年間第15主日・B年(24.7.14)

「二人ずつ組みにして遣わすことにした」

行って、わが民イスラエルに預言せよ(アモス7:15参照)

 まず、初めに、今日の第一朗読ですが、紀元前8世紀ごろ、北イスラエル王国で活躍した預言者アモスが、神の民イスラエルに預言するように主なる神から派遣される場面にほかなりません。

 実は、羊飼いであったアモス(765-735 BC)は、当時の社会的不正を厳しく告発し、形骸化(けいがいか)したイスラエルの宗教の偽善を暴いた預言者といえましょう。

 とにかく神の救いの歴史においては、どの時代にも神のことばを、預かりそれを人々に告げ知らせる預言者は、なくてはなりません。

 ですから、60年前、教会の大改革に取り組んだ第二バチカン公会義では、『教会憲章』において、預言職の大切さを次のように宣言しています。

「神の聖なる民は、キリストが果たした預言職にも参加する。それは、特に信仰と愛の生活をとおしてキリストについて生きたあかしを広め、賛美の供え物を、すなわち神の名をたたえる唇(くちびる)の果実を神にささげることによって行われる(12項)。」と。

 ですから、神の民の頭(かしら)である教皇は、まさに今日(こんにち)の世界における預言者として、現代世界が直面している深刻な問題について、次のように厳しく告発しておられます。

「『殺してはならない』という掟(おきて)が人間の生命の価値を保証するための明確な制限を設(もう)けるように、今日(こんにち)においては『排他性と格差のある経済を拒否せよ』とも言わなければなりません。この経済は人を殺します。路上生活に追い込まれた老人が凍死してもニュースにはならず、株式市場で二ポンドの下落があれば大きく報道されることなど、あってはならないのです。これが排他性なのです。飢えている人々がいるにもかかわらず食料が捨てられている状況を、わたしたちは許すことができません。これが格差なのです。現代ではすべてのことが、強者が弱者を食い尽くすような競争社会と適者生存の原理のもとにあります(『福音の喜び』53項)。」と。

 さらに、教皇フランシスコは、五年前の訪日の際、長崎と広島において、核兵器廃絶についてまさに預言的アピールを、次のようになさいました。

 まず、長崎の爆心地公園で、

「この地、核兵器が人道的にも環境にも悲劇的な結果をもたらすことの証人であるこの町では、軍備拡張競争に反対する声を上げる努力が常に必要です。軍備拡張競争は、貴重な資源の無駄遣いです。・・・核兵器から解放された平和な世界。それは、あらゆる場所で、数えきれないほどの人が熱望していることです。この理想を実現するには、すべての人の参加が必要です。個々人、宗教団体、市民社会、核兵器保有国も非保有国も、軍隊も民間も、国際機関もそうです。核兵器の脅威に対しては、一致団結して応じなくてはなりません。」

 次に、同じ日の夕方、広島平和記念公園で、次のようなメッセージを力強く預言なさいました。

「わたしは平和の巡礼者として、この場所を訪れなければならないと感じていました。あのすさまじい暴力の犠牲になった罪のない人々を思い起こし、現代社会の人々の願いと望みを胸にしつつ、じっと祈るために来たのです。とくに、平和を望み、平和のために働き、平和のために自らを犠牲にする若者たちの願いです。わたしは記憶と未来にあふれるこの場所に、貧しい人たちの叫びも携(たずさ)えて参りました。貧しい人々はいつの時代も、憎しみと対立の無防備(むぼうび)な犠牲者だからです。

 わたしは謹(つつし)んで、声を発しても耳を貸してもらえない人たちの声になりたいです。現代社会が置かれている増大した緊張状態、人類の共生を脅(おびや)かす受け入れがたい不平等と不正義、わたしたちの共通の家(地球)を保護する能力の著(いちじる)しい欠如(けつじょ)、あたかもそれで未来の平和が保たれるかのように行われる継続的あるいは突発的な武力行使を、不安と苦悩を抱いて見つめる人々の声です。

 確信をもって、あらためて申し上げます。戦争のために原子力を使用することは、現代においては、これまで以上に犯罪とされます。人類とその尊厳に反するだけでなく、わたしたちの共通の家(地球)の未来におけるあらゆる可能性に反する犯罪です。原子力の戦争目的の使用は、倫理に反します。核兵器の保有は、それ自体が倫理に反しています。」

 

二人ずつ組みにして遣わすことにされた(マルコ6:7a参照)

 次に、今日の福音ですが、マルコが伝える十二使徒が、イエスご自身から、初めて宣教に派遣される場面にほかなりません。

 マルコによれば、イエス独自の宣教活動の開始は,次のように簡潔に報告されています。

「ヨハネが捕らえられた後(のち)、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣(の)べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。回心して福音に信頼しなさい』と言われた(同上1:14-15)。」その後(のち)、早速、ガリラヤ湖畔で四人の漁師を弟子にし、続いて多くの弟子たちを集められ、それから「イエスは山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった(同上3:13-15)。」と。

 そして、今日の場面に移ります。

「イエスは十二人を呼び寄せ、二人ずつ組みにして遣わすことにされた。・・・十二人は出かけて行って、回心させるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くに病人をいやした。』」

 この使徒たちによる最初の宣教は、イエスの昇天の前に世界宣教命令に発展させ、次のように命じられました。

「それからイエスは言われた。『全世界に行って、すべて造られたものに福音を宣(の)べ伝えなさい。』・・・イエスは、弟子たちに話した後(のち)、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至ところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語ることばが真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった(同上16:15-20)。」

 この宣教命令を受けて、わたしたちの共同体も、ミサを共に捧げる度毎(たびごと)に、「行きましょう。主の福音を告げ知らせるために。」と、それぞれの家庭、学校、職場そして地域社会に派遣されるのです。

 ミサでいただいた恵み、特に、みことばを、まず身近なところから分かち合うことではないでしょうか。

 ですから、教皇フランシスコは、この宣教命令を、どのように受け止めるべきなのか、その根本的な心構(こころがま)えについて、次のように強調しておられます。

「神のみことばには、神が信者たちに呼び起こそうとしている『行け』という原動力がつねに現われています。・・・

 今(こんにち)、イエスが命じる『行きなさい』というみことばは、教会の宣教の絶えず新(あらた)にされる現場とチャレンジを示しています。皆が、この宣教の新たな『出発』に呼ばれています。すべてのキリスト者、またすべての共同体は、主の求めておられる道を識別(しきべつ)しなければなりませんが、わたしたち皆が、この呼びかけに応(こた)えるよう呼ばれています。つまり、自分にとって居心地のよい場所から出て行って、福音の光を必要としている隅に追いやられたすべての人に、それを届ける勇気をもつよう呼ばれているのです(同上20項)。」と。

 

【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2024/st240714.html