年間第14主日・B年(24.7.7)

「人々はイエスを理解しようとしなかった」

 

彼らは自分たちの間に預言者がいたことを知るであろう(エゼキエル2:5参照)

 今日の第一朗読ですが、捕囚地(ほしゅうち)でただ一人預言者として活躍したエゼキエルの預言者としての使命を確認する場面と言えましょう。

 つまり、紀元前六世紀に、イスラエルの民は、罪のゆえに戦勝国バビロニア帝国の首都バビロンの近郊に強制移住させられていた時です。捕囚民の一人であったエゼキエルは、預言者としての召命を受けたときの体験を次のように報告しています。

「わたしは捕囚の一人として、ケバル川のほとりにいた。そのとき天が開かれ、わたしは神のヴィジョンを見た。その月の五日、・・・祭司ジブの子エゼキエルに主のことばがくだり、その手が彼の上に臨んだ(同上1:1-3)。」と。

 そして、続いて今日の場面に移ります。

「その日、霊がわたしの中に入り、わたしを自分の足で立たせた。わたしは語りかける者に耳を傾けた。主は言われた。『人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの人々、わたしに逆らった反逆の民に遣(つか)わす。彼らは、その先祖と同様わたしに背いて、今日(きょう)この日に至っている。・・・彼らに言いなさい、主なる神はこう言われる、と。彼らが聞き入れようと、また、反逆の家なのだから拒もうとも、彼らは自分たちの間に預言者がいたことを知るであろう。』」と。

 ここで言われている「人の子」という称号ですが、実は、福音書では、イエスが御自分のことを、「人の子」と、言っておられます。

 ところが、このエゼキエル書では、エゼキエルの呼び名となっています。

 さらに、この預言者が、まさに預言者としての召命を受ける場面では、「霊がわたしの中に入り、わたしを自分の足で立たせた。」と、神の与える霊こそが、エゼキエルの預言者としての働きの原動力に他なりません。

 ちなみに、旧約聖書に登場するこの霊ですが、文脈によっては、「風」、「息」とも訳され、いずれの場合も、人間、諸物の根源である神の力を前提としています。

 また、ここで言われている「反逆の家」ですが、エゼキエル書に特徴的なイスラエルを規定する用語といえましょう。

 ちなみに、第二バチカン公会議が決定した『教会憲章』ですが、第二章の「神の民について」の中で、「神の聖なる民は、キリストが果たした預言職にも参加する。」と、説明し、「信徒の預言職 生活のあかしとことばの力をもって、父の国を告げ知らせた偉大な預言者キリストは、栄光を完全に表す時が来るまで、自分の名と権能によって教える聖職位階だけでなく、また信徒を通して、自分の預言職を果たす。そのため、キリストは信徒を証人として立て、信仰の感覚とことばの恵みを授け、福音の力が家庭と社会の日常生活の中に輝きわたるようにした(35項)。」と、宣言しています。

 

わたしは弱いときこそ強いからです(二コリント12:10b参照)

 次に、第二朗読ですが、使徒パウロがコリントの教会に宛ててしたためた第二の手紙の12章からの抜粋であります。

 パウロは、ここで、自分の信仰体験を極めて具体的に次のように分かち合ってくれます。

「わたしが思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思いあがらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。」と。

 まず、ここで言われている「とげ」ですが、パウロが自分の使徒職遂行に妨げとなる特別な苦痛、あるいは衰弱をもたらす肉体上の慢性的疾患についてとも考えられます。

 また、「使い」と、擬人化(ぎじんか)しているのは、当時、ユダヤ人の間では一般に病気がサタンの仕業(しわざ)と考えられ、その上パウロの場合、福音宣教を妨害しようとするサタンに、いわば部下として役立つものと考えていたからではないでしょうか。

 とにかく、パウロは、主のお言葉を信じ、「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」と、決心します。

 ここで、パウロは改めて「自分の弱さを誇りましょう。」と、強調していますが、まさにパウロの回心の体験ではないでしょうか。 

 ちなみに、ここで言われている「宿る」ですが、旧約の文脈で、荒れ野で天幕を張ったイスラエルの民の中に神が宿った(出エジプト26:8参照)ときの「神の宿り」を背景にしたのではないでしょうか。

 

預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである(マルコ6:4参照)

 次に、今日の福音ですが、マルコが伝えるイエスが、初めて故郷(こきょう)に帰られたときの出来事に他なりません。

 まず、安息日にはいつものように会堂で教え始められたというのです。

 そこで、確かに、故郷の人々は初めてイエスの教えを聞き、驚いて「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。」と、極めて正直な人々の反応ではないでしょうか。

 ところが、イエスと共に育った故郷の人々は、イエスについての先入観に縛られて、「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」と、躓(つまず)いてしまったというのです。

 さらに、マルコは、イエスの心境を、次のように断言しています。

「イエスは、人々の不信仰に驚かれた。」と。

 わたしたちも、イエスに対する信仰を、生涯かけて全うしていくのですが、それは、日々、イエスのみことばに忠実に聞き従い、「立派な善い心でみことばを聴き、よく守り、忍耐して実を結ぶ(ルカ8:15参照)」生き方ではないでしょうか。

 それこそ、パウロが、次のように勧めるキリスト者の新しい生き方と言えましょう。

「兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれるいけにえとして献(ささ)げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣(なら)ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心(みこころ)であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい(ローマ12:1-2)。」と。

 

 

 

【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2024/st240707.html