「わたしが与えるパンとは 世を生かすためのわたしの肉のことである」
その食べ物に力づけられた彼は、四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた(列王記上19:4-8参照)
今日の第一朗読は、列王記上19章からの抜粋であります。
しかも、今日の個所は、預言者エリヤが、王妃イゼベルから命をねらわれていることを知って、神の山ホレブを目ざして逃亡しなければならないという深刻な場面にほかなりません。
そこで、「荒れ野に入り、更に一日の道のりを歩き続けた。彼は一本のえにしだの木の下に座り、自分の命が絶えるのを願って言った。『主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。』彼はえにしだの木の下で横になって眠ってしまった。御使(みつか)いが彼に触れて言った。『起きて食べよ。』見ると、枕もとに焼き石で焼いたパン菓子と水の入った瓶(かめ)があったので、エリアはそのパンを食べ、水を飲んで、また横になった。」
ちなみにイスラエルの歴史において、王国時代は、紀元前1030年に初代王サウルの即位によって始まったのですが、三代目の王ソロモンの息子たちによって北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂してしまいます。
しかもイスラエル王国のアハブ王ですが、「サマリアで22年間イスラエルを治めた。オリムの子アハブは、彼以前の誰よりも、主なる神の目に悪と思われることを行った。彼は、ネバトの子ヤロブアムの罪を繰り返すだけで満足せず、シドン人の王エドバルの娘イゼベルを娶り(めと)、進んで異教の神バアルに仕え、礼拝した(同状16:29-31)。」
さらに、エリアが、バアルの預言者たち450人と対決し、彼らをキション川で殺してしまったことを、聞いた妃(きさき)イゼベルが、エリアを無き者にしようとしているのを知って、エリアは、荒れ野に逃げ込んだと言うのです。
ですから、きょうの場面では、「主の使いはもう一度戻って来てエリアに触れ、『起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ』といった。エリアは起きて食べ、飲んだ。その食べ物に力づけられた彼は、四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた。」と、いうのです。
ちなみに、「神の山ホレブ」ですが、シナイ山と言われている大切な山にほかなりません。
じつは、出エジプト記には、シナイ山での契約の締結(ていけつ)について次のような説明があります。
「モーセは戻って、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、『わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います』と言った。・・・モーセは血の半分を取って鉢に入れ、残りの半分を祭壇に振りかけると、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、『わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります』と言うと、モーセは血を取り、民に振りかけて言った。『見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたちと結ばれた契約の血である(同上24:3-8)。』」
とにかく、今日の場面では、神は、命の危険にさらされている預言者を、神の山ホレブにたどりつくまで必ず守ってくださることを強調しているのではないでしょうか。
このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる(ヨハネ6:51a参照)
次に、今日の福音ですが、ヨハネが伝えるパンの奇跡(しるし)が、実は、ミサで与えられる命のパンであるという説教の中心箇所といえましょう。
そこで、実は、イエスの説教にもろに躓(つまず)いてしまった群衆に向かってのイエスの核心に触れる説教が始まります。
「イエスは答えて言われた。『つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。』」
ここで、まず、イエスと天の御父との密接な関係を強調します。つまり、「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。」と。
さらに、ここで初めて復活についての約束をなさいます。
「わたしは、その人を復活させる。」
因みにイエスは、天の御父によって復活させられたのですが、父のもとに昇られたイエスが、救いの完成の暁(あかつき)にわたしたちを復活させてくだると約束なさったのです。
しかも、そのためには、「父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。」と、断言なさいます。ここで言われている「永遠の命」ですが、すでにイエスは、次のように強調しておられます。
「わたしが天から下ったのは、
自分の意志を行うためではなく、
わたしを遣わした方のみ旨を行うためである。
わたしを遣わした方のみ旨とは、
わたしが、与えられた者を、ひとりも失うことなく、
終わりの日に復活させることである。
わたしの父のみ旨は、
子を見て信じる者が皆永遠の命を持ち、
わたしがその人を、終わりの日に復活させることである(同上6:38-40)。」
確かに、永遠の命は、復活と密接につながっていますが、すでに信仰を生きることこそが、永遠のいのちをすでに生きていることに他なりません。
さらにイエスは、断言なさいます。
「わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
ここで、強調されている「永遠の命」ですが、最後の晩餐の後(あと)、イエスが天の御父に向かってひたすら祈る場面で、
「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたから委ねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。永遠の命とは、唯一まことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです(同上17:2-3)。」
因みに、ここで言われている「知る」ですが、「一致し親密な交わり」を生きる体験と言えましょう。