「風や湖さえ従うではないか」
高ぶる波をここでとどめよと命じた(ヨブ記38:11参照)
早速、今日の第一朗読ですが、知恵文学の代表作ヨブ記の38章からの抜粋であります。
この書物は、恐らく半世紀にわってユダ王国の王を筆頭に要人たちが、戦勝国バビロニア帝国の首都バビロンの近郊に強制移住させられていた捕囚時代の後(のち)、エルサレムで編集されたと考えられます。
ちなみに、この書物の主題は「人生における苦しみの神秘」にほかりません。しかも、今日(きょう)の個所は、主なる神が、主人公のヨブに向かって最初に語り掛ける場面であります。
「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。
海は二つの扉を押し開いてほとばしり、母の胎から溢れ出た。
わたしは密雲(みつうん)を着物とし、濃霧をその産着としてまとわせた。
しかし、わたしはそれに限界を定め、二つの扉にかんぬきを付け
『ここまでは来てもよいが超えてはならない。
高ぶる波をここでとどめよ』と命じた。」と。
冒頭で言われている「主は嵐の中からヨブに答えて」ですが、苦しみの最中(さなか)、ヨブの神に対する助けを求める叫びが、ようやく神の耳に達し、神はその叫びに直接お応(こた)えになる場面と言えましょう。
しかも、人間の声ではなく、嵐のとどろき中で、ヨブに語り掛けると言うのです。
さらに、「海は二つの扉を開いてほとばしり、母の胎から溢れ出た。」と。
この場面ですが、神は天地創造のとき、「天の下の水は一つ所に集まれ(創世記1:9)」と、宣言したので、海と陸の間に境界線が引かれたというのです。
ですから、「母の胎から溢れ出た」とは、胎児が母の胎から出ることに海水がたとえられていると言えましょう。つまり、「海は二つの扉を押し開いてほとばしり」と、ほとばしり出る水に境界線が定めたれたことを暗示しているのではないでしょうか。
さらに「密雲(みつうん)をその着物とし、濃霧をその産着としてまとわせた。」と、生まれた赤ん坊に産着を着せるように、海も密雲(みつうん)や濃霧に包まれると言うのです。しかも、「しかし、わたしはそれに限界を定め、二つの扉にかんぬきを付け『ここまでは来てもよいが超えてはならない。高ぶる波をここでとどめよ』と命じた。」というのです。
つまり、海は嵐のときも静かなときも、同じ境界線を守ることを確認しています。
とにかく、神は、試練の最中にあるヨブを、必ず救い出すことを、強調しているのではないでしょうか。
神は彼らを目ざす港に導かれ彼らは静かな海を渡った(詩編107:30参照)
次に、先ほど歌った答唱詩編ですが、詩編107編からの抜粋であり、32節の「人の子らよ、神のいつくしみと その不思議なわざに感謝せよ」という呼びかけは、典型的なイスラエルの祭儀の答唱に、ほかなりません。
この詩編107編は、1節から43節に至るまで、救われた者の感謝の詩編と言えましょう。
しかも、今日(きょう)、歌った箇所は、船乗りが航海の最中(さなか)遭遇した災難から見事に救われ、無事港に導かれたことを感謝しています。
「沖に向かって船出でする者、
海を渡って商(あきな)いする者、
彼らは大海原(おおうなばら)で、
神の不思議なわざを見た。
彼らが苦悩の中から神に助けを求めると、
あらしは静められ、海はなぎとなった。
神は彼らを目ざす港に導かれ、
彼らは静かな海を渡った。」と。
なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。(マルコ4:40bc参照)
次に、今日(きょう)の福音ですが、マルコが伝えるイエスがガリラヤ湖上(こじょう)の嵐を静める感動的な場面にほかなりません。
まず、そのときの状況説明ですが、ガリラヤ湖畔でいつものように群衆に向かって、特に神の国のたとえ、つまり「成長する種のたとえ」と、「からし種のたとえ」を語られ、しかも「イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉(みことば)を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、ご自分の弟子たちには、ひそかにすべてを説明された(4:33-34)。」
そして、今日(きょう)の場面になります。
「その日の夕方になって、イエスは、『向こう岸に渡ろう』と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後(あと)に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。」
ここで言われている「向こう岸に渡ろう」ですが、つまりガリラヤ湖の東側は、異邦人の主な居住地区なので、イエスが、まさにご自分の宣教範囲を異邦人の地にまで押し広げようとしておられたと言えましょう。
ちなみに、このガリラヤ湖ですが、風が湖に向かって吹き込むときには、しばしば突然、激しい嵐が起こることで有名なのです。
ですから、「激しい突風が起こり、船は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかしイエスは艫(とも:船尾)の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、『先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか』と言った。」と。
まさに、激しい暴風雨の最中(さなか)で、眠っておられること自体、最初の奇跡であったとも言えましょう。とにかく、イエスは、神に全面的に信頼する者のお手本ではないでしょうか。
けれども、弟子たちは「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と、あからさまに非難しながらイエスを起こします。
ちなみに、ここで、弟子たちが、イエスに向かって「先生」と、呼んだのは長い一日を終えようとしたときが、初めてです。
ですから、イエスは、今度は経験から弟子たちに学ばせることで、彼らの信仰を力強く鍛錬(たんれん)なさりたかったのではないでしょうか。
つまり、イエスは、弟子たちがパニックに陥っているのを放ってはおかれず、すぐに起き上がって、湖が大荒れになっているその原因を、つまり「風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪(なぎ)になった。」そのとき、イエスは弟子たちに語り掛けます。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」と。そこで、「弟子たちは非常に恐れて、『いったい、この方(かた)はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか』と互いに言った。」
わたしたちもイエスに対する信仰と信頼を、より一層強めていただくように、共に祈りましょう。