「あなたの信仰があなたを救った」
主は生きておられる(列王記下5:16参照)
早速、今日の第一朗読ですが、列王記下5章からの抜粋にほかなりません。
ちなみに、この列王記ですが、神学的に考察した歴史書で、恐らく紀元前922年から850年の間に編集されたと考えられます。
それは、神の民イスラエルの王国が、北と南に分裂し、北のイスラエル王国、続いて南のユダ王国が滅亡します。さらに、この列王記は、ユダ王国の王を初め主だった人たちか、戦勝国バビロニア帝国の首都バビロンの近郊に強制移住させられていた時代に編集されたと考えられます。
しかも、今日の個所は、イスラエル王国で活躍した預言者エリシャが、アラム王の軍司令官ナアマンの重い皮膚病を奇跡的に癒(いや)した感動的な場面にほかなりません。
「その日、シリアのナアマンは神の人エリシャの言葉どおりに下(くだ)って行って、ヨルダン川に七度(ななたび)身を浸した。彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった。
彼は随員(ずいいん)全員を連れて神の人(エリシャ)のところに引き返し、その前に来て立った。『イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことがわかりました。今この僕(しもべ)からの贈り物をお受け取り下さい。』神の人は、『わたしの仕えている主は生きておられる。わたしは受け取らない』と辞退した。ナアマンは彼に強いて受け取らせようとしたが、彼は断った。ナアマンは言った。『それなら、ラバ二頭に負わせることができるほどの土をこの僕(しもべ)にください。僕(しもべ)は今後、主以外の他(た)の神々に焼き尽くす献げ物やその他の[いけにえ]をささげることはしません。』」
この場面で、エリシャが、ナアマンからの贈り物と、きっぱりと断るとき、「主は生きておられる」と、厳(おごそ)かに宣言しましたが、別の言葉では、「誓って」と、言い換えることができる、まさに真(まこと)の神への信仰を表す宣言といえましょう。
また、「ラバ二頭に負わせることができほどの土をこの僕(しもべ)にください。」と、願ったのは、イスラエル以外の他の神々には、[いけにえ]を、捧げないという証のためだったのではないでしょうか。
自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た(ルカ17:15参照)
次に、今日の福音ですが、ルカが伝える重い皮膚病を患(わずら)っている十人の患者が、奇跡的に癒される次のようないとも感動的な場面にほかなりません。
「イエスは、エルサレムへ上(のぼ)る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、『イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください』と言った。イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、『祭司たちのところに行って、体を見せなさい』と言われた。彼らはそこへ行く途中で清くされた。」
ここでまず注目すべきことですが、なぜ十人の患者たちが、「遠くに立ち止まったまま」だったのでしょうか。我が国でも、たとえば、ハンセン氏病の患者さんたちは、法律が制定される以前には、国立の療養所に強制的に収容され、社会とは、全く隔離されていました。
とにかく、イエスの時代においても、おそらくハンセン病の患者さんたちは、感染を警戒して、一般社会から完全に隔離(かくり)されていたというのです。ですから、彼らがイエスにお会いする場面でも、ある一定の距離の離れたところでしか、人々に近づくことしかできなかったのではないでしょうか。
そこで、イエスは、彼らに命じられます。
「祭司たちのところに行って、体を見せなさい。」
当時、この病気が癒されたことを証明するのは、医者ではなく祭司の務めでした。
続いて、今日の個所では、癒された一人のサマリア人の、なんと信仰による救いの体験が語られます。
「その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。『清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。』それから、イエスはその人に言われた。『立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。』」
この今日の出来事の後半は、まさに癒された外国人のサマリア人が、彼の信仰による救いの体験の報告になります。彼は、自分が癒されたことに気づくと、戻って来て、神を賛美し、イエスに感謝した異邦人でした。
ですから、イエスは、彼に向かって厳(おごそ)かに宣言なさいます。
「『清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。』それから、イエスはその人に言われた。『立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。』」
まず、ここで確認すべきは、癒しの体験と信仰による救いの体験とは全く異なるということではないでしょうか。
つまり、癒されたのは、確かに十人でしたが、賛美しながらイエスの許に戻ってきたのはサマリア人だけだったという事実です。
ですから、イエスは、彼に向かって厳(おごそ)かに宣言なさったのです。
「あなたの信仰があなたを救った。」つまり、癒しという恵の体験と、その体験によってイエスを信じるのは、まさに救いの体験ではないでしょうか。
この体験を、たとえば、洗礼を受けると言う恵の体験によって確認してみましょう。
たとえば、幼児洗礼という秘跡(ひせき)についてですが、信者の親が、その幼児に、確かに洗礼を授けますが、その子の成長に合わせて、初聖体、そして堅信(けんしん)を受けさせます。つまり、必要な秘跡は、すべて授けました。ところが、その子が、中学生になって部活や、受験のため塾に通うようになると、主日のミサに参加できなくなります。そうしているうちに、その子は、それこそ教会を、事実上離れてしまいます。つまり、幼児洗礼そして聖体と堅信を受けても、日々、みことばによって信仰を日々育てなければせっかく受けた秘跡も、宝(たから)の持ち腐れになってしまうのではないでしょうか。
ですから、パウロは、日々みことばによってこそ信仰が育てられることを次のように強調しています。
「『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』のです。ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。遣わされないで、どうして宣(の)べ伝えることができよう。・・・実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストのことばを聞くことによって始まるのです(ローマ10:13-17)。」
このパウロの勧告を、教会ぐるみで実行できるように共に祈りましょう。

https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2025/st251012.html