「回心せよ神の国は近づいた」
エッサイの株からひとつの芽が萌(も)えいで その上に主の霊がとどまる(イザヤ11:2a参照)
今日の第一朗読ですが、イザヤ書11章からの抜粋であります。
当然なことなから、待降節には特にイザヤ書から、メシア預言が朗読されます。
ですから、今日の朗読箇所で、メシアの誕生とそれに伴って実現する全く新しい平和の秩序(ちなみに聖アウグスティヌスは、「平和は秩序の静けさ」と定義している)を次のようにいとも荘厳に預言しています。
「その日
エッサイの株からひとつの芽が萌(も)えいで
その根からひとつの若枝が育ち
その上に主の霊がとどまる。
知恵と識別の霊
思慮と勇気の霊
主を知り、畏れ(おそ)れ敬う霊。
彼は主を畏(おそ)れ敬う霊に満たされる。」と。
ここで言われている「エッサイの株からひとつの芽が萌(も)えいで」ですが、身内の十部族を失って縮小したばかりでなく、残った南王国ユダもアッシリアの属国(ぞっこく)になってしまったかつてのダビデ王国になぞらえたイメージであります。
けれども、「その根からひとつの若枝が育ち その上に主の霊がとどまる。」のであります。
すなわちダビデの父エッサイの切り株から、また、その根から新しい命である芽が萌(も)えいでる、なんと、メシアとしての新しいダビデが生まれるというのであります。
しかも、ダビデの上に主の霊がとどまったからこそ、名も無いエッサイの家系の末の子が神の民イスラエルの偉大な王になったように、来るべき新しいダビデの上にも主の霊が留まると強調しているのです。
次に6節からは、恐らく楽園のイメージを背景に、弱肉強食という原理が、共存共栄の全く新しい平和の秩序が確立されることを、動物の世界を背景に、次のように極めて牧歌的に語られます。
「狼は小羊と共にやどり
豹は子山羊と共に伏す。
子牛は若獅子と共に育ち
小さい子どもがそれらを導く。
・・・
乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ
幼子は蝮(まむし)の巣に手を入れる。
わたしの聖なる山においては
何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。」と。
しかも、このように、共存共栄の動物が世界に登場するのは、「小さい子ども、乳飲み子、幼子」たちですが、イエスが強調なさった「天の国で最も小さなものが、洗礼者ヨハネよりも偉大である(マタイ11:11)。」と。また、「心を入れ替えて子どものようにならなければ決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子どものようになる人が、天の国で一番偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである(同上18:3-5)。」に、見事に関連づけることが出来るのではないでしょうか。
その方は聖霊の火であなたたちに洗礼をお授けになる(マタイ3:11b参照)
次に、今日の福音ですが、マタイによる福音書の3章からの抜粋であります。
ここで、イエスの先駆者(せんくしゃ)洗礼者ヨハネを登場させ、メシアをお迎えする大切な心構えについて、まさに核心に触れる宣言がなされます。
まず、洗礼者ヨハネの宣教の第一声を、次のように伝えています。
「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で述べ伝え、『回心せよ。天の国は近づいた』と言った。これは、預言者イザヤによってこう言われている人である。『荒れ野で叫ぶ声がする。〔主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。〕』」と。
まず、ここで言われている「回心」ですが、「聖書と典礼」では、「悔い改め」と表記されている、ギリシャ語のmetanoiaですが、近年、特にカトリック教会では回す心、すなわち回心と言い換えています。それは、ギリシャ語のmetanoiaのもともとの意味が、物の見方、考え方、そして価値観までを、福音を基準に根本的に変革して行く体験だからに他なりません。
また、「天の国」ですが、新約聖書のほかの箇所では、すべて「神の国」となっていますが、福音書においては、定義はなくすべて次のような譬えで説明されています。
「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけて人は、そのまま隠しておき、喜びながら、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う(同13:44)」
ちなみにマルコ福音書では、イエス御自身が、宣教の第一声として、ガリラヤで次のように宣言なさったと伝えています。
「ヨハネが捕らえられた後(のち)、イエスはガリラヤへ行き、神の国の福音を宣(の)べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。回心して福音を信じなさい』と言われた(マルコ1:14-15)。」と。
続いて、マタイは、洗礼者ヨハネを、預言者イザヤの宣言に結び付けています。
「これは預言者イザヤによってこういわれている人である。
『荒れ野で叫ぶ者の声がする。〔主の道を整え、その道筋をまっすぐせよ。〕』と。
洗礼者ヨハネは、旧約時代の二人の預言者、すなわち、イザヤ書に記されている預言者とエリアとを同じ役割を担う者として、また、同じ姿で、描いています。
しかも、洗礼者ヨハネは、「わたしの後に来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしはその履物(はきもの)をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」と、極めて重大な発言をしています。
ここで言われている「聖霊と火」ですが、聖霊は人の心を熱くして清くすることを暗示していると言えましょう。ですから、洗礼者ヨハネが「水で洗礼を授けているが」と、水による洗礼が外的しるしにとどまり、それ自体は、内的に影響を及ぼす力がないことを説明し、聖霊と火によるイエスの洗礼こそが、実際にキリストの霊によって内的変化が実現するしるしであることを主張しているのではないでしょうか。
では、すでにイエスの聖霊と火によって洗礼を受けたわたしたちが、この待降節に当たってどのような回心の体験ができるのか、使徒パウロは、次のような適切な勧告をしてくれます。
「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして、献(ささ)げなさい。これこそ、あなた方のなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣(なら)ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい(ローマ12:1-2)。」と。
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