「あなたは行って 神の国を言い広めなさい」
それからエリシャは立ってエリヤに従い彼に仕えた(列王記上19:21参照)
早速、今日の第一朗読ですが、列王記上の19章からの抜粋であります。
この書物は、タイトルが示しているように、二代目の王ダビデの晩年における宮廷内の争いに始まり、ソロモンの即位と繁栄を極めたこと、さらに彼の死後の王国の分裂、そして、バビロニア軍によるエルサレムの降伏(前586年)までの南王国ユダの王たちについて語る二巻の歴史書であります。
そこで、今日の箇所は、預言者エリヤの弟子エリシャの召命にまつわる次のような感動的なエピソードにほかなりません。
「エリヤはそのそばを通り過ぎるとき、自分の外套をエリシャに投げかけた。エリシャは牛を捨てて、エリヤの後を追い、『わたしの父、わたしの母に別れの接吻をさせてください。それからあなたに従います。』・・・
エリシャはエリヤを残して家に帰ると、一軛(ひとくびき)の牛を取って屠(ほふ)り、牛の装具を燃やしてその肉を煮、人々に振る舞って食べさせた。それから彼は立ってエリヤに従った。」と。
ここで言われている「自分の外套(がいとう)をエリシャに投げかけた。」というくだりですが、エリシャを預言者として召し出すしぐさで、エリヤがこの世を去る時に、その権威のシンボルである外套が、実際にエリシャのものになったと言うのです。
ちなみに、最後のくだり、「それからエリシャは立ってエリヤに従った。」ですが、まさに預言者エリヤの弟子になるという召命が成立したことにほかなりません。
霊の導きに従って歩みなさい(ガラテヤ5.16参照)
次に、第二朗読ですが、使徒パウロがしたためたガラテヤの教会への手紙5章からの抜粋であります。
ちなみに、この手紙は、使徒パウロが、自分がユダヤ人として熱心に律法を守り、先祖からの伝統に忠実に従って、キリストの教会を迫害していたけれども、異邦人のための使徒となる召命を、なんと復活のイエスご自身から直接いただいたことを報告しています。
しかも、今日の箇所では、キリスト者の生き方の基本である自由と愛と「霊」を生きることを、次の様に力説しています。
まず、「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛(くびき)に二度とつながれてはなりません。」と。
確かに、ガラテヤ人は、かつては異教の掟を守り、精神的にその奴隷となっていたのですが、実に、キリスト者として自由な者となったにもかかわらず、今度はなんとユダヤ律法に縛られて再び奴隷の状態に陥ろうしていることを、パウロは、厳しく次のように戒(いまし)めているのです。
ですから「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」と。
ここで言われている「肉に罪を犯させる機会とせずに」ですが、人間の根本的悪は、神と人とを愛さず、自分のためだけに生きることを意味していると言えましょう。
ですから、キリスト者の本来の生き方は、神と人とを愛することによって永遠のいのちを生きてこそ、真の幸福を見出すことが出来ることを強調しているのです。
鋤(すき)に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない(ルカ9:62参照)
最後に、今日の福音ですが、ルカによる福音書の9章からの抜粋であります。ルカは、この段落で、まず、イエスのエルサレムへの旅立ちが、天に向かう出発であると決意を固められたと報告します。また、イエスがサマリア人に歓迎されなかったわけの説明にもなっています。
「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。」と。
ここで、最初に「天に上げられる時期が近づくと」の下(くだ)りは、イエスの旅立ちの時の確認にほかなりません。ちなみに、ヨハネは、この時を「イエスの時」として、最後の晩餐において、次の様に念を入れて報告しています。
「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」(ヨハネ13:1参照)と。
実は、ヨハネによればこの「わたしの時」(ヨハネ2:4参照)にイエスの活動は最初から向けられていたのであります。
これは、「この世から御父の許に超えて行く時」であり、弟子たちを「極(きわ)みまで愛する時」にほかなりません。
ところで、ルカは、「しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。」と説明しています。
この理由は、サマリア人だけでなく、弟子たち、さらに教会にとっても、イエスがエルサレムを目的とすることが、すなわち人々からの拒絶つまり受難を意味するからにほかなりません。
次に、イエスの弟子になる覚悟について、三つのエピソードが報告されます。
まず、最初に、「一行が道を進んで行くと、イエスに対して、『あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります』という人がいた。イエスは言われた。『狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。』」と。
ここで言われている、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。」ですが、人間はこの世では所詮旅人に過ぎないという格言だったのかもしれませんが、イエスに当てはめるなら確かに人々からは拒絶されるというイエスの孤独さを表していると言えましょう。ですから、イエスの弟子になりたいのなら、それなりの覚悟が必要なのです。
「そして別の人に、『わたしに従いなさい。』といわれたが、その人は、『主よ、まず、父を葬りに行かせてください』と言った。イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。』」と。
実は、当時のユダヤ社会では、特に父親の葬儀を丁寧に行うことは、ユダヤ教の信心の中心でした。ですから、イエスのこのお答えは、ユダヤ教の根幹(こんかん)をゆるがすことになります。
最後にイエスは、「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいをさせてください。」と、願った人には、「鋤(すき)に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と、非難なさいます。
つまり、イエスに従うことは、肉親の絆から離れ、徹底して「神の国の宣教」に専念することにほかなりません。
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